diary

オチのない話を書いていく

20/11/06 恒久

 好きなゲームがそのサービスを終える。高校入学の少し前に始まったそのゲームは、動くシートと2つのモニターを備える体験型ロボットアクションアーケードゲームだった。財布と携帯だけ持ってゲーセンへ行く週末を、何度過ごしただろうか。

 そして、早いことに今年ももうあと一月半で終わりだ。流行病とそれに起因する生活スタイルの(恐らく不可逆的な)刷新など、今年は激動の1年だった。振り返るにはまだ早いような気もするが。

 

 時間は寸分違わず同じリズムで過ぎ続け、あらゆる存在は偉大なる時間の前に深く頭を垂れている。消え続ける須臾は誰にでも等しく老いを与え、劣化を与え、終わりへの道程を一歩進めさせる。

 われわれ生物にとって、時間の経過とは即ち死までの残り時間の消費だ。限りなく長い寿命を持つ生物も、死の運命からは逃れられず、その生の始まりも時間に縛られている。この宇宙の熱は常に離散を続け、いずれ冷えきって緩やかな停止を迎える。溶ける氷は水に戻り、水もいつかは蒸発して消える。万物の死と消滅は、この時間とやらに支配されている。

 

 永遠は、その特性そのものが凄まじい価値になりうる。貴金属や宝石に価値があるのも、人間による長期的観察の範囲内では、その構造や機能に変化が起こらないからだ。歴史的に見れば、人間はこの特性の獲得に憧れている。錬金術と名ばかりの化学者たちがいっせいに不老不死の実現を試みたのも、恒常性が大きな価値として見られていたことの証明になるだろう。

 僕もこの例に漏れず、永遠に憧れ続けている。

 

 永遠のものは美しい。金は「我関せず」とも言うかのように、自身に向かう全てを金色に染めて跳ね返す。フォスフォフィライトは濁り一つないその身体を向こう側に透かして、彼の色に染まっただけの世界をそのまま映す。ダイヤモンドは喜びながら眩い光を放つ。人間からすれば極めて永遠に近いこの惑星は美しく蒼く、宇宙は無限遠の彼方にある星を暗闇に孕み輝く。

 日常に嫌気が指すのは、それがどれほどの価値を持つか知らず、一方老いて行くその身体に、時間の流れに対して脆すぎるその精神が痺れを切らすからだ。

 恒久(eternity)、無限(infinity)は神格として見られることもある。数千年、または数十億年の間待っていられるのは、その神も恒常性を持つからだろう。

 

 僕はあらゆるものが恒久の存在になって欲しい。好きなものが消えるのは、好きな人が居なくなるのは悲しい。あらゆるものが永遠に永遠で、時の流れない飽和した世界でずっと暮らしていたい。僕を好いてくれる人が、僕を好きなままでいて欲しい。僕も誰かを永遠に好きなままでいたい。未来のない閉塞した時間は多分心配事など起きえない。みんな幸せであって欲しい。手の届かない場所に行かないで欲しいのかもしれない。

 エゴだということは、たぶん分かっている。

 過去の後悔も、明日の心配ももうしたくない。それでも、昨日の失敗を恥じるだろうし、数年後のことを考えて憂鬱になり続けると思う。だからこそ、完全に停滞した世界に憧れているのだろうと思う。僕はそんなに強い人間じゃないようで、fightとflightなら後者を選びがちな人間なのだろう。だからこうやって時間からの逃亡を夢想しているのだと思う。やっぱりこれはエゴだ。

 

 

20/11/05 単独犯

 他人と協力することが苦手だ。いつからだろうか、誰かを手伝うのは良くても、誰かに手伝われるのは嫌いになってしまった。

 他人に手伝ってもらうのは大変だ。自分の仕事を説明する時間と、解釈の違う仕事をされた時の手直しを考えれば、何もせず1人で淡々と仕事を済ます方が遥かに楽なように思える。

 僕はまだ学生の身分だから、大層な開発の仕事などしたこと無い。せいぜい個人的なプロジェクトや課題としての開発ぐらいしかやらないが、学校という場であることもあり協力が求められる。複数人開発の利点は、コンスタントに開発が進められる事だが、そのためのタスク配分は結局主導者の仕事を増やす。

 

 人間が利他的な精神をその精神構造の表層に持つのは、それが生存の過程で必要だったからに過ぎない。協力という行為それ自体は、ライオンやシマウマやゾウによく見られる群れの形成とさほど変わらないだろう。協力も自己犠牲も本能に組み込まれた生存のための機能に過ぎず、無論神の介在する余地は無い。人間だけが協力できる生き物である訳では無い。協力の様式が多様であるだけだ。

 自己犠牲は協力を放棄することに近い。その本質は、己の犠牲を免罪符にして、集団からの脱出を図る行為だと思う。これは別にどうでもいい。ただ、もうこれ以上集団という機械の円滑な動作のために、潤滑油としてすり潰されるような経験はしたくない。

 

 佐藤という友人がいる。彼は確実なセンスを持ちながら、凄まじい集中力と熱情さえ併せ持つ。極めて優秀な技術者だ。彼とはそれなりに仲がいいから、もちろん開発も誘われる。数年ほど前に共同でCUIで動作するゲームなど作ったこともある。

 彼は僕を共同開発に誘ってくれる。授業で主要な課題になるそれを、共に開発しようと善意に満ちた笑顔で誘ってくる。

 「最強のもの作ろうぜ、お前と一緒なら成績カンストできる」

 これは彼の言葉だ。僕が開発に誘われるのは、単に仲がいいからだけではなく、共同開発の過去とまあまあの実績があるからだ。僕は決して賢くないが、情報収集能力には長けると思う。分からないことがあったら徹底的に調べて、どうにかして修正策を生み出す。記事から記事を、記事からブログを巡り、ツイートを漁ってGitHubに辿り着き、リファレンスガイドが「よく閲覧するページ」の常連になるまで読み漁る。そうして見つけた修正/代替案を使う。これを繰り返して、学年上位の成績をどうにか維持している。ネットが無かったら、僕はきっと落第生だ。

 彼の善意を裏切るような行為はしたくない。多分了承して、少々ぶつかりながら良いものを作れると思う。文句なんて言うべきじゃないのかもしれない。

 

 僕は楽な方法を取りたくない。楽な道は多くの人に選ばれる。だから、そこにはもう誰かが持っている成功しかない。凡庸な経験で出来た凡庸なプログラムを成果として提出したくない。

 楽じゃない道は、その通り楽ではないだろう。こだわりの為に妥協を捨て、理想のソフトウェアへの漸近を少しずつ続ける険しい道になる。その苦悩も、その先の賞賛も、完成した後の後悔も全て自分のものにしたい。自分だけのものにしたい。智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。今の僕は角が立っている状態なんだろうか。

 

 ”一緒”は楽だろうし、楽しいと思う。経験をロスレスに共有するのは、そう簡単なことではない。だとしても、理想を追う時は一人で行きたい。僕の大切な友人である彼は、分かってくれるだろうか?

 

 

 

 

20/10/24 カメラの話

 今日は普通に備忘録的な話をする。何度もインターネットに漂う知識に助けられたので、僕もネットの海に経験を放流したいと思う。

 

 僕の使用しているカメラは、1957年製のリコー社製カメラ、「リコーフレックス ダイヤL」だ。

f:id:kisaragi_fiber:20201024215442j:image

*机の上が散らかっているのはご愛嬌

 

 このカメラには光電池を使った露出計が組み込まれている。6x6cmというフィルムの大きさゆえの高画質と相まって、風景を撮ることを得意としている。

 

 先日、このカメラを使っている時に、フィルム巻き取りノブががたついていることに気がついた。軸のネジが緩んでいるのだろうと思い、ネジを探してみるも、どこにも見当たらない。オーバーホール(趣味)用の機を分解してみても、どこにもネジがなかった。

 ふとノブを見ると、中心のフィルムロック解除ボタン(そう呼んでいるだけで正式名称は知らない)に2つ穴が空いていることに気がついた。しかも、意味ありげに前の持ち主が傷をつけている。f:id:kisaragi_fiber:20201024220329j:image

*回したと物語る傷

 

 時計分解用のピンを2本用意し、オーバーホール用の機で当該部分を分解しようとするが、固くて全く動かない。なんせ60年物のカメラであるから、どこかしら固着していても不思議ではない。伝家の宝刀5-56をたっぷり吹きかけ、油を染み渡らせてみるも、効果はなかった。しかし、謎の計算尺(?)は回るようになった。

 

 調べてみると、カニ目レンチなる道具があれば簡単に分解できるらしい。時計の電池交換などに使用するもので、2つのピンが並び、その間隔を精密に調整出来る。特殊なレンチみたいなものらしい。さっそくAmazonでポチッた。
f:id:kisaragi_fiber:20201024220833j:image

*大層な見た目

 なんと2つの穴にシンデレラフィット。穴の中心同士の間隔はちょうど1cmなので、商品選びには注意するべきだろう。そのまま反時計回りに力を加えると、簡単に外すことが出来た。

 

 ノブの内部は、上から順に

 ボタン本体・ボタンを押し返すバネ・ワッシャー・ノブ本体・ノブを固定するネジ

 の順で構成されている。ボタン本体とバネを外してネジを締めればノブのがたつきは改善されるだろう。必要に応じて、各部品の汚れを落とし、潤滑油を塗布しておくことで、今後の潤滑な動作も期待できるだろう。大掛かりな整備をするつもりが無くても、ノブと本体の接触部分には潤滑のために薄く油を塗っておこう。綿棒を使うと便利だった。

 

 今日はこの辺で終わり。

 今日と明日は文化祭だ。既に1日目でかなり疲弊しているが、明日も頑張ろうと思う。

今日はとても楽しかった。友人たちに感謝だ。

 

20/10/23 昔話

 今日の話は短い。

 

 かつて、心を病んでいた時期があった。今から4年ほど前のことである。

 僕は吹奏楽部に所属していた。部内のパワーバランスは予想通りのもので、人数差で女子に圧倒される日々だった。ある時、今まで支え合っていた唯一の男友達と仲違いした。多分僕の失言が原因なのだが、何を間違えたかはわからない。

 そうして僕は部内で孤立した。僕は1年間続けたユーフォニアムから、人数バランスを理由にテューバへの異動を命じられた。見た目が同じ楽器でも、その重量や必要な肺活量、ブレスの速さなど全てが異なる。僕は必死に練習を続けたが、その方法が非効率的だったこともあり、進歩は極めて遅いものであった。

 部活では、定期的に"パーリー会"という名の集会が開かれる。各楽器パートのリーダーが呼び出され、そこで練習の進捗状況や連携状況の確認が行われる。そして、男子部員に対しては至って普通にモラハラが行われる。内容は思い出したくもないので省くが、僕はその"パーリー会"で日常的に口撃を受け続けた。

 ある時、単純に体調不良から胃腸炎とインフルエンザに連続で罹患した。部活に復帰すると、待っていたのは理不尽な叱責だった。「胃腸炎程度で休むな」「インフルエンザに罹らない体にしろ」「体調を崩すな」無理な話だと思った。もはや部活の話ではない。病み上がりの僕は、未だ続く身体の不調と熾烈な叱責、慢性的な不眠が原因で、たった1週間で心を病んだ。同時期に、クラスのために企画した打ち上げがジョックの手によって失敗に終わったことで、更に心労を重ねることとなった。

 

 何に対してもビクビクしていて、少しの騒音で身体が硬直する。呼吸が常に苦しく、手足は震えて力が出ない。

 学校へは普通に行く。というより、行かないと却って症状が悪化した。医者が、強迫性障害です、と何の感情もなく僕に告げたのをよく覚えている。親は精神科の受診を頑なに拒んだため、大学生だった義理の姉が多忙の暇を縫って僕を病院に連れて行ってくれた。薬は出してもらえなかったが、カウンセリングは何度も受けた。定型文の励ましは、念仏とそう変わらないように思えた。

 夢を見た。白い綿毛が並木通りに一面覆いかぶさっていて、向こうから黒いトラックが走ってきていた。よく見ると並木の向こうは空港で、アメリカ人らしい屈強な軍人が僕に拳銃を向け走ってくる。反対方向へ走り出す僕は、空中を分裂しながら進む水色の水玉に捕まえられ、溶かされる。暗くなる視界の中で、 「世界の全て、教えてあげるね」と複数の子供から囁かれる。

 目が覚めると、得たはずの真理は消えている。妄言なのは知っているが、そこには確実に真理があった。

 

 この夢を見てしばらくして、症状は快方へ向かうこととなった。

 僕はあの時、世界の真理を得ていたのだろうか

20/10/22 終末

 聖書を読んだ。黙示録は面白い。なんでニガヨモギ

 

 終末論という考え方がある。読んで字の如く、世界には終わりがあるという考え方だ。これはキリスト教・仏教・ヒンドゥー教と様々な教えで説かれているが、「終末」という現象の捉え方が異なる。

 例えば、キリスト教ではラッパが何回か響き世界が吹き飛ぶとキリストが再臨する。"最後の審判"なる審判が行われる。教義に背き、それを悔いなかった人間は地獄に堕ち、それ以外はキリストを主とする千年王国で生き、その後永遠の命を得るという(前千年王国はこんな感じだったと思う)。仏教では、釈迦の教えが実行され、悟りを開く人がいる時代がいつか終わるという。うわべだけの修行者が増えると"像法"、その後教えの実行が絶たれると"末法"と呼ばれる時代になるという。

 

 人間はより上位のものに依存しやすい形質を持つ。これは、力の強いものに協力することで、間接的に自分の身を守り、種を残すための進化だと考えている。社会的地位の話は抜きにすると、今現在人間の上に立つのは神だけということになる。自分だけの力ではどうにもならない状況に苦しみ、困窮し、どうにもならなくなった人々が、その原因や解決策を上位存在に頼るのは(歴史を見るに)極めて自然な行動だ。国家という共同体は、経済・政治に苦しめられたとき、期せずして神に頼ってしまう。共同体の維持に無理が出始めると、世の中には宗教が蔓延るようになる。真理教がその信徒を増したのも、肥大化した泡が弾ける寸前の88~89年頃だった。

 ちなみに、この場合神の実在性は関係ない。人間は縋れるものがあればそれだけで満足する。これは割と真理だと思う。テスト前に勉強できるなら、点数の心配をする必要は少ない。「勉強したから」という理由に基づく誤った記憶は、ときにノートの文字より信頼度が高い。

 

 終末論は、最終的な"救済"として描かれる場合と、単なる"終わり"として描かれる場合の両極端に分かれているように思える。キリストは自身の言葉に従順なものへ永遠の命を与えるが、末法にもはや救いはない。残るのは、56億年後の救済を待つ殺伐とした世界だけである。ここで面白いのは、その終わりに到達することそのものが目的になっていることである。

 人間は基本的に"終わり"を嫌う。"終わり"は死のメタファーだ。死を恐れるのは生物の基本機能だ。しかし、人間が大好きな宗教は、その"終わり"を目的としている。腐りきった世の中はイナゴやらニガヨモギやらが降ってこないと浄化されないし、56億年間の間終末世界を生き延びなければ救いは来ない。このような、極めて不可解な教えに対しても、ある種盲目的に従うことができるというのが、人間と動物との差を形成する一因なのだろうと思う。レミング集団自殺は救済を求めての行動ではなく、事故である。レミングは厭世に耐えかねて神に身を任せたわけではないのだ。

 

 学校の文化祭が近い。"3年生"もじきに終わるだろう。流行り病に抑えつけられた一大イベントも、後から見ればちゃんと祭りになっていると思う。

 こうやって、未来から見て「あの時は大変だった」と思えることを願って、その終着点を夢に見るのだろうと、なんとなく思った。終わることを楽しめるのは、人間だけかも知れない。

20/10/21 変身

 今日は本を読んだ。何回目か定かでないが、カフカの「変身」を読んだ。それで少し考えたことについて書き記す。

 

 よく聞く言葉ではあると思うが、人間は大なり小なり変身願望を持つ。「かっこよくなりたい」「かわいくなりたい」という抽象的なものがポピュラーだが、我々オタクの嘆く「2次元に行きたい」なども広義には変身願望に含まれるだろう。

 全く関係ない話だが、僕は漫画「宝石の国」より”フォスフォフィライト”、正確には所謂”ラピフォス”とか呼ばれる存在そのものになりたいと思う。彼/彼女の精神はその身体より遥かに硬く、粘り強いからだ。無論その存在に成れたとて、精神性まで獲得できるとは限らない。僕は彼/彼女の顔に惚れているだけだろう。クズとでも呼んでくれ。

 

 人間のあらゆる機能は必要性から実装されたものだと過去の記事で話した。この「機能」には、消化器や神経系など実体のある器官により実装された機能と、精神活動によって実装される感情や慣習などの実体のない機能の両方が含まれる。人間の手指が精密な作業を可能にするような進化をしたのも、過去のどこかでそれが必要だったからだし、他人に嫉妬するのも生存に必要だったからだろう。(正確には、この論は間違っている。場当たりに様々な適応選択肢を同時並行で実装し、生き残ったものが持つ形質のみが伝承されていくため、無数の機能から必要なものが”残った”と表現するのが正しい。この辺はそのうち別の記事で取り上げたいと思う。)

 ならば、この変身願望も過去のどこかの地点で必要だったから実装されているはずである。

 

 「かっこよくなりたい」「かわいくなりたい」という願望は、己の性的魅力を高めることで、自分の種を残せる可能性を高めるためのものであると予想できる。「2次元に行きたい」については、低ストレス環境に身を置きたいという生命保持のためのものだと予想する。X理論Y理論の話はしないが、人間は己の生存に最適な環境を求め続ける習性があるのだと思う。

 だとすれば、変身願望は極めて自然な精神活動だ。どうやって獲得したかなど考える余地は殆どない。より高品質な生活を送るために、現状を絶えず更新していくための行動だろう。高品質な生活とは、すなわち死の可能性が低く種の継承が容易な環境だ。その環境の達成を周囲だけでなく己に対しても課すことで、劣悪な環境下でも生存の可能性を見出すことが出来るかもしれない。

 

 現代では、変身願望は様々な形で現れ、同じく様々な方法で満たされる。メイク、整形、コスプレ、近年ではVRなどもあるだろう。グレゴールは願望の域を超え、虫そのものになってしまってはいるが、彼はそれを以て抑圧から解放されることが出来た。あの話がグッドエンドなのかバッドエンドなのかは読み手によるだろう。

 変身願望は環境を含めた「理想の自分」を達成するための自己改善メカニズムだ。いずれ、願望を意のままに満たすことが出来るようになると信じている。人間は残酷にも核酸の繋がりで全てが左右される。ヒトの進化がまだ続くなら、きっとその恒久的なハンデさえも打破できるだろう。

 

20/10/20 言葉

 話すことは難しい。相手の人柄やその時点までの会話から最適な表現技法と語彙を選んで、そこに強弱変化や基本的な抑揚変化をかけて発音する。必要がある場合は、発音同士の間隔や「あえて話さない」というさらに高度な技術が必要になる。

 今日は友人と話していてちょっと失敗したから、その本質について考えてみたいと思う。

 

 話すことの基盤は言語である。Wikipediaの「言語」のページによると、以下のように説明されている。

人間が用いる意志伝達手段であり、社会集団内で形成習得され、意志を相互に伝達すること(コミュニケーション)や、抽象的な思考を可能にし、結果として人間の社会的活動や文化的活動を支えている。

 どうやってか、人間は鳴き声から、音の繊細な高低・強弱を持ち、発音の微妙な変化で異なる意味を持つ「言語」を生み出した。鳥類や虫などもコミュニケーションが可能なある種の言語を持つが、「勘」「餡」「乱」など、ほとんど発音が同じで異なる意味を持つような言語を用いてのコミュニケーションが出来るのは人間だけに思える。

 例えば、カラスは複数種類のパターンを使い分けることで、敵への警戒や餌の発見など異なる意味を使い分けることが出来る。しかし、「カア」と鳴いたか「アア」と鳴いたかで意味を分けるのは難しそうに聴こえるし、そもそも発音を繊細に変化させられるような口の構造をしていない。

 言語は人間が生み出した最大のコミュニケーションツールだ。しかも、意味を伝えるだけでなく、音韻を用いた娯楽の要素、思考にもこれを用いることが可能で、実在しないものを生み出すことも出来る。しかし、この発明には非効率的な部分も多くある。耳が悪くなれば正常なコミュニケーションは難しくなるし、使用する音域も広域への伝達性が高いわけでは無い。

 

 生命の進化は極めて場当たり的なもので、その名前がイメージさせる”スマートな”ものでは無い。糖尿病は寒冷期に血液を凍結させないための適応だったし、太るのも長期間飢餓状態で生き延びるための適応だった。決して賢い方法では無いが、「その時必要だったから」付けられた多彩な機能で人間は出来ている。人間に不要な機能などない。今は必要でないだけで、本当に必要な機能だけが積み重なり出来ている。

 物理現象だけでなく精神活動も同じだ。人間が利他行動を好むのも、この形質を獲得した時にたまたま利他行動が生存に有利だっただけで、そこに神秘など込められていない。感情も各種生存のための行動を引き起こすに有利な精神状態がたまたま喜怒哀楽その他だっただけだろう。シャーデンフロイデも生き延びるために必要だったのだろうか?

 

 僕は言語を2種類に分ける。ハイコンテクスト(高文脈)言語とローコンテクスト(低文脈)言語だ。この辺はWikipediaを見てもらいたいが、簡単に説明するとこうだ。

 プログラミング言語Pythonでは、変数型の指定が無くても、代入結果に応じて型を勝手に設定してくれる。一方、C系言語では変数型を明示する必要がある。この場合、Pythonは「文脈を読む」ために変数型を勝手に設定してくれる。Cは「文章だけを読む」ため、それ以上のことはしない。Pythonは高文脈、Cは低文脈言語と言える。

 この例では人工言語を用いたが、自然言語でも同じで、高文脈言語は「文脈を読む」ことで、その文章に表された内容以上の意味を持つ。しかしこれは、同時に誤認を誘う可能性が高い。ちなみに、日本語は特異なレベルの超高文脈言語だ。「月が綺麗ですね」は、日本でしか通じない。

 高文脈/低文脈言語も、人間の進化の一形態であると思っている。短文で多様な意味を再現する高文脈言語と、誤認発生率が低い低文脈言語は、いずれどちらかが淘汰されて継がれていく。このふたつは双極的だ。コミュニケーションの基盤であることもあって、これから世界情勢がどう動いていくかで生き延びる方も変わるだろう。

 

 言語は人間が生み出した最大の発明だが、これは最大の武器でもある。これを用いることで、人間は物理的な危害を一切加えずに対象を殺すことさえできる。他人に優しい言葉をかけられれば、生存本能に組み込まれたどこかのスイッチが反応して「喜」を発生させる。独裁者に扇動された民衆は、怒りに身を任せて殺戮の限りを尽くすかもしれない。

 言葉は強力な精神干渉能力を持つ。他人に対しても、己に対しても。自己暗示という言葉があるように、その効果は馬鹿にできるものではない。痛いの痛いの飛んでいけ、とは、それなりに効果のあるものだ。

 

 言語は思考のベースになる。日本語話者が英語で物を考えることは無いだろう。人間は最初に獲得した言語で思考を行う。蝶と蛾を区別する言語としない言語があるのは有名だが、思考も言語に引きずられるだけあって、思考言語に存在しないことを深く思考することはできない。「蛾」というものが存在しない言語で、それが如何なるものか考えるのは難しいだろう。

 つまり、認識は言語に左右される。その事象を指す言葉があるから、それについて考えられる。しかし、その思考言語に偏りがあった場合、思考にもその影響は及ぶ。「外人」と呼ぶだけあって、日本人は外国人に対し「異物」の認識を持つ。「宗教」という言葉に、良いイメージを持つ日本人はいないと思う。

 ならば、言語を習得しなければ?思考言語も無いから、あらゆる物事を深く考えることが出来ない。しかし、あらゆる偏見を排除した「本質」を認識することが出来る。こう考えていると、本質とは、認識とは何か分からなくなってくる。理解しないことが本質であると考えると、それはもはや宗教の領分になるような気がする。

 

 話すことは難しい。こうして文字を綴ることも難しい。我々はこれからも、本質を夢見てその対極のものを使い思考していく。塔が崩されたその日から、我々は諍い、その間に覗く偽りの本質をかき集めて崇拝していく。でも、それこそが人間らしさだとも思う。不気味の谷を埋めるためには、塔の瓦礫が必要だったのかもしれない。

 

 相当の散文になってしまった…言葉を紡ぐことは難しい…